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マンガや動画その他を見た感想などを勝手気ままに書いています.
論文メモとかの仕事関連の記事は,2010年8月9日以降 はてなダイアリーでつけることにしました: 論文メモその他 ブログ以外にTwitter もやってます. こちらは趣味と仕事となんやかんやがごちゃごちゃです: http://twitter.com/L_I_B 当ブログはぷよm@sシリーズを全力を挙げて応援しています. よろしければ紹介記事をどうぞ: 検索エンジンからおいでの方に「ぷよm@s」を紹介してみる
マガジン本誌では堂々の完結を迎えた,赤松健先生の 「魔法先生ネギま!」. そこに敵役として出てくる 月詠(つくよみ) が好きだ,という話.
![]() 月詠は,ネギたちの敵でありライバルでもあるフェイトらのパーティーメンバーの,二刀を遣う京都神鳴流の剣士. 同じ流派の 桜咲刹那 のライバルとして,物語の最初期にあたる修学旅行編から,物語の最終盤のフェイトらとの最終決戦にいたるまで,何度となく剣を交えてきた. 最終巻である38巻はまだ発売されていないけれど,37巻で刹那にやられた月詠は もう物語には再び登場しないであろうから (あるいはひょっとしたら丸くなったキャラとして下手に再登場してしまう前に),月詠はあそこで死んだものとして,彼女について思うところを少しばかり書きたい. 月詠は初登場以来一貫して,自分はただ戦いにしか興味がなく,世界が滅ぶとかいうことはどうでもいい,と語り続ける. 最初期は 「ウチはただセンパイと剣を交えたいだけ」 と,最終盤は 「我が求むるはただ血と戦いのみ」 と. 社会や世界などといった大きな問題に関心を寄せないキャラクターは,エヴァンジェリンやラカンなど他にもたくさんいる. また 「熱い戦い」 だけを追い求めているキャラクターも月詠だけに限らない. たとえばネギパーティーの 古菲 (クーフェイ) がかつて言っていた, 「我只要 和強者闘 (私が望むのは ただ強者との戦いのみ)」 というセリフは,月詠の 「我が求むるはただ血と戦いのみ」 を思い起こさせるものがある. ところがしかし,この一見よく似た二つのセリフには きわめて重大な違いがある. 「血」 を求めるか否か,だ. これはわずかではあるが決定的な違いだろう. 「血」 を求める願望は,まともな社会で満たすことは難しい. いままでネギたちの前に立ちふさがった敵たち――天ヶ崎千草やフェイトや始まりの魔法使いなど――は,いずれもネギたち,または社会に,受け入れられる可能性を残している. あるいはのちのち仲間に,ひょっとしたら友達に,なれる可能性すらある (実際,フェイトはそうなった). でも月詠には その可能性はない. 少なくとも 「血」 を求めることをあきらめなければ,彼女は決して受け入れられはしないだろう. ところで,そもそも月詠はなぜ 「血」 を求めるのだろうか. ひとつの解釈は, 「相手を倒す (=血を流させる) ことで,自分が強いということを証明したい」 というものだろう. たぶん桜咲刹那は,月詠のことをそう理解しているのではないかと思う. 最終決戦前の以下の対話はその証拠となるだろう. 「力の為に 魔に身を委ねるとは ・・月詠!」 「力の為? ウフフ ・・違います センパイを 心ゆくまで 味わう為ですわ」 ![]() そしてこの戦いが決着するときの対話も,おおむねそのセンに沿ったものだ. 「なにものにも囚われず自由である者は,守るべきものをもつ者より強い」 という月詠をはねのけ,刹那は言う. 「それは間違っている,守るべき者が芯をくれるからだ」 と. ネギま!という作品の主題となっているメッセージは,「わずかな一歩を踏み出す勇気を持て」 に加え, 「仲間を信頼せよ」 というものだろう (もちろん両者は互いに結びついたものであるけれど). ここで刹那があのセリフとともに月詠を打ち破ったことは,「仲間を信頼せよ」というこの作品のふたつめの主題を,裏から支えるエピソードになっている. ……と,言いたいところだが,本当にそうかなあ? 月詠はただ強さを得たいだけなのか? 前掲のセリフで自らそれを否定しているじゃないか. 月詠はじつは単にサディスティックな嗜好を持っているだけ,と理解することはできないだろうか. もしそうなら,月詠はいわゆる勝敗には興味がなく,戦いそのものと,それによって相手に苦痛を与えることだけに興味があるということになる. この理解が正しいならば,月詠は最後の戦いにおいて,じつは負けていなかった,と言えるだろう. あの最後の戦いで,「血」 と 「戦い」 のいずれも,心ゆくまで堪能できたはずだからだ. 最終決戦,刹那と全力で戦い抜き,そしてあの妖刀で刹那をいたぶる月詠のあの恍惚とした表情からは,興奮と満足だけが読み取れるじゃないか. あの最終決戦では,月詠は求めるもの (戦いと苦痛) を手に入れ,刹那もまた求めるもの (最終的な勝利) を手に入れたのだ. おお! これはWin-Winの関係じゃないか! ここで (私にとって) 大事なことは,月詠が 「血」 を求める根底に,社会や世界を否定したい心情があったりはしない,ということだ. 月詠の行動原理の根本は,憎しみや怨みや恨みや妬みや嫉みなどではない (と私は思いたい). ただ単に,もともとそういう人であっただけなのだ (と思いたい!). そして私は,力と強さを求め続けて力の前に敗れ去った月詠ではなく,社会や世界に復讐しようとして膝を屈した月詠ではなく,ただただ自らの嗜好であるところの血と戦いのみを求め続けた月詠をカッコイイと思うのだ. なぜならそのような月詠からは,誰ひとり認める者がなくても,それどころか社会から,または世界から否定されつづけても,幸福であるということがありうるのだ,ということが伝わってくるからだ. ただその点においてだけ,月詠は英雄である,とすら言いたい. 志を同じくする仲間とともに,あるいはひとり孤独に,正義のために戦い人々を救う英雄を 「表の英雄」と呼ぶとしたら,一人孤独に戦い人々を苦しめる英雄 (?) は 「裏の英雄」 とでも言うほかはないだろう. 月の名が付された月詠には裏がよく似合う. 月詠は誰かを救ったりしない. 味方を,仲間を,友人を必要としない. そして誰からも認められない. それでも幸福な人生というものがありうるということをそこから読みとり,そのことで癒され,救われることもあるのだ. そういう読者に対してだけ,月詠は英雄たりうるのだ. ネギ,ナギ,フェイト,ゲーデルら 「表の英雄」 は,人を教え,導く. 彼らの行動に人は感化され,動く. 月詠のような 「裏の英雄」 は,人を動かさない (もし人を動かすならば,そのことは否定的な文脈で描かれるしかない). ただ,表の道からこぼれた人を,賞賛され肯定される生き方を諦めた人を,なぐさめ癒すだけだ. 表の英雄は多くの人に囲まれて正義を貫く. 裏の英雄は孤立してでも己の願望にこだわる. それゆえに 「裏の英雄」 たる月詠の生き方が肯定的に描かれることはない. 戦いに明け暮れ,人々を苦しめ続けて死んだ月詠の人生は幸福なものであった……という描かれ方は決してされない. にもかかわらず,実は月詠の人生は満たされた幸福なものだったのだという読み方をし,そこからひっそりと癒しを受け取る者もいるのだ. そう伝えてくれる人を必要とする時もあるのだ. そう語りかけてくれる物語を必要とする場合もあるのだ. ただそういう時にだけ,ただそういう人に対してのみ,月詠はヒーローになってくれるのである.
かねてより知らされていたことではあるのだが,ジュンク堂新宿店が2012年3月31日をもって閉店してしまった.
「書店が果たさねばならない役割がある」――ジュンク堂新宿店“最後の本気” - ITmedia ニュース 最後に残されたメッセージが,わずかながら望みをつなぐに足るものであるというところが救いではある. ……救いではあるのだが,やはり寂しい気持ちに変わりはないのだ. 東京にいた学生時代,書店に立ち寄るためだけに,休日になるとよく新宿に行っていた. 青山ブックセンター,紀伊國屋書店と,丸一日を潰せるだけの大きな,そして楽しい書店が集まっていたからだ. だが悲しいことに,いつしか青山ブックセンターは撤退してしまった. 知らずにルミネを登っていった時のショックは,いまでも忘れがたい. それでも新宿は楽しい場所であり続けた. ジュンク堂があったからだ (昔からあったような気がしたが,Wikipediaを見ると新宿店はどうやらけっこう新しいようだ. 記憶なんてあてにならないものだな). 東京を離れてからも,近くに立ち寄る機会があるたびに,たとえ30分だけであっても必ずジュンク堂新宿店を尋ねることにしていた. ジュンク堂が閉店してしまったら,新宿にはもう遊びに訪れることはないかもしれない. 閉店前,さいわいにも3月にいちど東京を訪れる機会があった. 当然のように新宿まで足を伸ばしてジュンク堂に立ち寄った. ああこれが最後なんだな,と思いつつ,いつものように両手いっぱいに買い物をした. よく 「本は買わずに後悔するより買って後悔しろ」 と言うが,ジュンク堂では買わずに後悔したことはない. あそこは読むのか分からないような本まで買わせる,謎の魔力に満ち満ちた場所だったのだ. ジュンク堂では逆に 「本は買って後悔するな,買わずに後悔しろ」 みたいな格言が必要なのではないか. それにしても,青山ブックセンター,ジュンク堂,西武新宿駅前の書店(名前忘れた)……. 新宿のお気に入り書店はどうしてみんな閉店していってしまうのだろう. もちろん書店なら,大型書店に限っても他にもいろいろある. 紀伊國屋書店は二店舗あるわけだし,青山ブックセンター跡地のブックファーストだってある. 高田馬場まで足を伸ばせば芳文堂もある. ……そうではあるのだけど,学生時代から通い慣れていた場所というのは,そのときどきの思い出があり,そしてそれにともなって格別の思い入れがあるものなのだ. そういう場所がなくなっちゃうのは,やっぱり,どうにも寂しいもんなんだよねえ.
羽海野チカ先生の 「3月のライオン」7巻はとても印象的な一冊だった.
![]() 冒頭のスキンヘッド氏編から,いじめ編を経て,宗谷名人編に至るまで,それぞれがつよく印象に残った. いじめ編は,以前,どう決着するか楽しみだという話を書いたことがあるんだけど (→「3月のライオン」 反正義の社会適応),7巻を読んで,ああこの決着の仕方はとても好きだな,と感じた. ひなちゃんを含めて多くの人は消化不良な感じを残しているだろうと思うし (実際,あれは解決になっていないという評を見ることもある), たしかに当事者意識が強ければそうだろうなあ,と私も思う. ……思うけれど,やっぱりあの 「解決」 の仕方は私ごのみなんだよね. 社会を成り立たせているさまざまな前提 (他者への共感とか) からして,公的には絶対に受け入れられることのない願望を持つような人は,どうしても一定の数はいるものだ. というより,そういう願望は少なくない数の人の中にあって,それをかなり多く持つ人もいる,と言うべきかな. そして,もしそういう人がそういう願望を表出させてしまえば,当然ながら否定され報いを受けるべきだ. そして,それが必然だということが伝われば,それだけでいいと私は思う. 大人ならば子供に対してそういうことを示すべきで,大人同士ならばそうなるような社会を作るように努力すべきだ. そしてそれだけでいい. そういった因果応報的なものは,反社会的な行動やその結果に対してだけ発生すべきで,そこでさらに内面から改悛を迫るってのは,個人的にはあまり好きになれないんだよね. まあある程度は仕方がないのだけど,行き過ぎるとそこに宗教とか洗脳のようなものに対する反発に近いものを感じてしまうから. だから,担任が変わったあとのあの先生の態度は,大人としての矜持を感じさせて非常に良かったと思うし,そしていじめ編がいじめっこの内面に深入りせずに描写を終えたことにも好感を持った. それはある種,上品な決着の仕方なのだ. ただ同時に,ひなちゃんがあのいじめっこを許しがたく感じ続ける気持ちもわかる. ここで言っているような立場を貫けば,そこにはどうしたって理不尽さは残るわけだから. まあ,だからそれは 「私ごのみの解決」,「 の限界,ということになるのだろう. ……. ところで私にとって7巻でもっとも印象深いシーンは,最後の宗谷名人のあいさつの場面なのだ. あれは本当に凄いと思った. あの宗谷名人という人は,われわれ凡百の者とは別の世界に棲んでいるのだ,と感じさせられたからだ. 羽生善治のインタビューとかを見ていて,ああこの人は俗世から離れてるな,この世にはいないな,と感じることがよくある. あの,視線を虚空に彷徨わせながら,あくまでも穏やかに,狂気と隣合わせの世界について語る姿に. おそらく羽海野チカ先生は,プロ棋士のそういった部分をああいう形で表現してるのだろうと思う. 羽生だけじゃなくて佐藤康光とか糸谷哲郎とかのトップ棋士を見ていると,人間臭い部分が匂ってくることも もちろん多いのだけれど,それだけじゃなく,ああこの人たちはわれわれとは本質的にちがう位相で生きてるんだな,ふつうの意味での好悪や快不快なんかとは離れたところにリアリティをもって生きてるんだな,みたいな印象をうけることが多い. ただ私は,それはあの人達の純粋さとか,頭の良さみたいなものとして理解していて,それを異質なもの,異形なものとして捉える感覚はなかったんだよね. ところが7巻最後の宗谷名人のあいさつの描き方を見て,うわ,羽海野先生はトップ棋士たちのああいうところをこういうふうに捉えるのか,こういう形でそれを表現しちゃうのか,すげえな,と思ったのだ. あの描かれ方を見て,トップ棋士たちのあの姿が,私の中で少し意味を変えたように感じた. 同時に,はじめて彼らの凄さと,それと表裏を一体にする異形さ,というものの一端がわかったような気がした. それはプロ棋士たちのあの姿と同種の匂いを漂わせる作者だからこそ つかみ得たものなのだと思う. この捉え方,描き方は,本当にすごいと感じさせるものだった. そんなわけで,私にとっての7巻のクライマックスはこのシーンだったのだ,ということが言いたかったのでした.
米長邦雄著 「われ敗れたり ―コンピュータ棋戦のすべてを語る」 がすばらしかった.
本書は,今年1月に行われたコンピュータ将棋ソフトとプロ棋士との公式対局「電王戦」を,対局者である米長自身が振り返って記したもの. 羽生善治や渡辺明など一流棋士はみな面白い文章を書くが,米長の文章も本当にすばらしい. 立ち読みで読破して,そのままレジに持って行ってしまった. 引退して7年も経つ,まもなく70歳になろうとする米長が,対局までにどのような準備を重ねたか. 対局中になにを考えていたか. それらを綴る文章は,対局者本人だけが体験できる臨場感に満ちており,そこからは迫力すら漂ってくる. だが本書が本当の意味で魅力的なものになっているのは,皮肉にも米長が今回敗れたことによるところが大きい,と言えるだろう. 本番の対局では,事前の研究が功を奏した形で,米長は序盤でコンピュータに対し圧倒的な優位を築くことに成功する. にもかかわらず,中盤でのわずかな見落としを突かれ,最終的にはコンピュータに完敗を喫してしまう. この一局にそのまま勝ち切っていれば,米長の構想は,とりわけ二手目6二玉の一着は,歴史的名手として語り継がれることになるはずだった. だがしかし,たった一つのミスにより,その名声は幻と消えてしまう. それだけにとどまらず,新聞等からは6二玉の一着は奇手だったと貶められることになってしまうのだ. その理不尽,悔恨,その他様々な思いが――米長の内面を渦巻く余人には計り知れぬものが,行間から沸き立つその情念が,本書をこの上なく魅力的なものにしている. 6二玉の一着への思いが本書の表の主題とするならば,裏の主題は,米長と米長の奥様との問答においてクライマックスを迎える. 対局前,米長は若手棋士にたびたび尋ねる. 私に勝算はあるかと. 若手は異口同音に答える. 「先生を信じています」 「期待しています」 この問いに対し,奥様だけは違った答えを返した. 対局当日の朝,米長に問われて返した答えは, 「あなたは勝てません」 米長の奥様は,将棋に関してはコマの動かし方を知っている程度の素人である. にもかかわらず, 「勝てないでしょう」 ではなく 「勝てません」 という断言. これに驚き,なぜ? と問い返す米長. それに対する奥様の返事は,米長にさらなる衝撃をあたえた. 「なぜなら――」 この奥様の答えに対する米長自身の解釈が,本書の中に幾度か登場している. が,幾度か,どころではなく,じつのところそれこそが本書の全体を貫く思想的根幹である,と私は考えている. 現役時代から米長が生涯のテーマとして考え続けてきた,勝負に勝つためにはどうしたらいいか,そもそも勝負に勝つとはどのようなことか,という問い. その問いが,勝負の場からいったん離れ,再びその場につこうとするとき,また新たな側面を見せることになったのだ. 引退したはずの米長の内に,いまだ消えず燻るプロ棋士としての矜持,勝負師としての情熱. それが本書の表と裏のテーマとなり,読者の胸を打つ. 対人間ではないからこそ純粋な形で浮き彫りにされるその思いが文章の裏に透けて見える. まさにそれこそが,本書の魅力をさらに押し上げているのである.
うえお久光,綱島志朗両先生によるマンガ版「紫色のクオリア」の1巻を読んだ.
原作の小説は未読なので今後の展開は分からないのだが,少なくともこの1巻目は非常に面白かった. 物語の主人公はスポーツ万能でサバサバした性格の少女,波濤学(ガクちゃん)と,その親友で紫色のひとみを持つ美少女,毬井ゆかり. 毬井ゆかりには「人間がロボットに見える」らしい. ガクちゃんはそんなゆかりの言うことを半信半疑で聞いていた. しかしある日ガクちゃんは,とあるおぞましい事件に巻き込まれたことをきっかけにして,ゆかりの目に映るものを,驚きとともに受け入れざるを得なくなっていくのだった……. タイトルに「紫色のクオリア」とあるように,この作品の主題は,通常の人間とはちがった視覚をもつ毬井ゆかりのクオリアの特殊さにある……と思うかもしれない. しかし,そうした哲学的な特殊さ,奇妙さはたしかに面白くはあるのだが,少なくとも一巻においては,物語の主題ではないように私には思われる. 本当の主題は,あまりにも鋭敏すぎる感覚を持ってしまった人物が,いかにして社会に受容されていくか,というところにある. マンガ版「紫色のクオリア」の一巻が描き出しているのは,(「凡人」である)他人に怖れを抱かせてしまうある種の「天才」が,それでも他人を愛し,そして受け入れられていく過程なのだ. 「人間がロボットに見える」という毬井ゆかりの感性とは,哲学で扱われるような「クオリア」や「哲学的ゾンビ」に類するようなものでもなければ,精神疾患による異常や妄想などでもない. 「人間がロボットに見える」のは,毬井ゆかりの特殊な「目」,すなわち感覚器の違いによるものであり,それはたとえば赤外線スコープをつければ暗闇でも目が見える,などといった状況に近い. 毬井ゆかりの「目」はあまりにもするどすぎて,われわれが人間を見るときには見落としてしまうものを見出してしまう(見出してしまうどころか,それに介入することまでできてしまうのだが)のだ. だから,そのような「目」を持っているからといって,彼女が何も感じられないゾンビであるわけではないし,人間を無機質で冷たいものと捉えているわけでもない. この一巻全体を通して,波濤学はそのことを実感することになる. 第一話で,波濤学は毬井ゆかりを抱きしめ,こんなことを考える.
一巻全体を通して描かれるのは,そうではないということなのだ. われわれには硬くて冷たく見えるロボットが,毬井ゆかりにとっては暖かくやわらかな人間と同じなのだから. むしろ彼女は,やすやすとロボットを壊し機械を捨てる われわれのほうの感性を空恐ろしいもののように感じているだろう. それでも毬井ゆかりは自らの鋭敏さをひた隠し,われわれと同じであるかのように振る舞う. そうしなくては,他人から拒絶されてしまうということを知っているからだ. いままで幾度となく,そういう目にあってきたからだ. だからこそ,一巻最後の波濤学の言葉が――自らのすべてを知った後でもなお「友だち」だと言ってくれたその言葉が――毬井ゆかりにはあまりにも貴重なものとして響いたのだ. だから,ここで毬井ゆかりと対比されているのが,人間をただの肉袋だと感じる凶悪犯なのだ. 彼女の目には,人間はロボットではなく人間として映ってはいるだろう. しかしその「人間」は暖かく血の通ったものではなく,冷たく硬い物体にすぎない. どれほどその「目」が異質であっても,毬井ゆかりが人間に,親友に受け入れられる可能性はけっして閉ざされはしない. それとまったく同じ理由で,あの凶悪犯がどれほどわれわれと同じ「目」を持っていようが,けっして人間に受け入れられることはないのだ. 彼女の感性は欠陥を抱えたもの,ゆかりに言わせれば「プログラムのバグ」でしかない. 彼女がそれでも人間であるためには,のちのち他の人々に受け入れられる余地を残すためには,是が非でもそうでなくてはいけないのだ. なぜなら,それはあきらかに周囲の人間とは異なる部分をその内に抱えこんでいる毬井ゆかりが,それでも人間に受け入れられるための条件でもあるからである. 感覚が違っていても,あるいはたとえ外見が違っていても,人は人を受け入れることができる. だがどんなに感覚が同じであろうが,外見が同じであろうが,人に人として受け入れられることのない者もいるのだ. この一巻で描かれているのは,人間が何を受け入れ何を受け入れがたく感じるか,その多様性と,同時にその限界でもある,ということなのだろう.
仲野徹先生の「なかのとおるの生命科学者の伝記を読む」を読んだ.
あまりの面白さにため息. 卓越した業績を残した科学者の伝記は,その仕事だけ追ったものであっても十分面白いのだが,そのうえその家庭的思想的歴史的社会的背景にまで迫られたら,そりゃーとてつもなく面白くもなろうというものだ. クレイグ・ベンターや森鴎外の闘いの人生を,前者はおおきな尊敬と親しみをこめて,後者はいくばくかの苛立ちと,やっぱりある種の親しみをこめて語る. 研究に対するジョン・ハンターの狂気と隣りあわせの姿勢を,好奇心丸出しで語る. オズワルド・エイブリーのひたすら真摯な姿勢を,その口調に尊敬と憧憬をたたえつつ語る. 本書は「伝記」ではなく「伝記の書評」のかたちをとっている. それゆえということもあろうが,伝記そのものとちがって基本的にほとんど一次資料にあたってはいない. が,しかしそのぶん著者の主観が色濃く出ていて,そこを楽しめる. 同業者ならばこそ,卓越した研究者の優れたところと困ったところをつまびらかにしていく筆者の評に「あるある」と思わずつぶやかされる. ついでにあとがきはさらにそのまとめ(三次資料?)なのでもっと主観的で面白い. 各伝記の面白い部分はギュッと凝縮して詰め込んである. 「伝記の書評」であるがゆえに,各伝記の紹介としてもすぐれた一冊だといえる.本書は単体でも楽しめるし,さらに気に入った研究者について知りたいと思えば,それぞれの伝記を手に取ればいいのだ.お得感満載. すこし残念なのは,連載されてたのが専門誌の「細胞工学」なので,彼らの業績そのものの紹介は,非専門家の読者にとってはやや難解なのではないかと思うところ,かな. 子どもや異業種のひとには薦めにくい本かもしれない…….
粒度が細かい指示について - medtoolzの本館
面白かった. 以下,自戒を込めて思ったことをメモ.
「必要以上に細かい指示」は、普通に回っていた現場に対して、無能がある種の「コミュニケーション」を試みたときに発せられることがあって、これがものすごい迷惑を生む。 粒度のふるい分けは,リーダーの仕事というより,現場の最前線からトップまでのあらゆる段階の人々それぞれの仕事なのではないかと思う. 粒度の錯誤は,トップから現場までのどの段階でも生じうる. しかし,粒度ふるい分け問題が問題として認識されていれば,その錯誤はどの段階でも解消しうる. 粒度の錯誤を最小限にとどめるためにも,現場とトップのコミュニケーションは,トップから降ってくるまで待つのではなく,現場側からトップへも持ちかけるべきだろう. たとえば現場側がトップ側に対して,問題の粒度をコントロールしながら情報伝達していくことは可能だ. 可能なだけでなく,それは中間管理職とか,ある程度責任を負った現場の人の仕事のひとつであるはず. 問題の粒度をコントロールするためには,現場側は情報をそのまま出すのではなく,整理された形で出さなければいけない. 整理された情報の出し方の一例は,インフォームドコンセントのやりかたに学べると思う. 現場側は複数の選択肢を用意し,それぞれのリスクとベネフィットをトップ側が実感を持てる形で提出する. トップ側はその中の一つを選ぶ. もちろんトップ側から発されるどんな質問にも,現場側は答えられる準備をしておかなくてはいけないけれど. ただ,このやりかたはトップ側の自尊心に触れる恐れがある.
こうした派生的な微妙かつ繊細な問題については,いかに対処していくかということは私のほうが教えを乞いたいものでございます.
赤松健先生の「魔法先生ネギま!」37巻を読んだ.
以下,ネタバレ含む感想. ──────────────────── 全編の半分はあろうかという魔法世界編が終わり,舞台はひさびさの麻帆良学園. クラスメイトたちと過ごす休日からは,懐かしささえ漂ってくる. とはいえ,物語そのものは魔法世界編から大きく変わったわけではない. 魔法世界の存亡をかけた戦いはネギたちの勝利に終わったものの,長期的な意味での魔法世界の存続という課題は残されたままだからだ. 今巻では,ずいぶん前からネギが語っていた「プラン」が一体どういうものなのかがようやく明らかになった. ネギの手立てとは,魔力を安定して供給しつづけるような環境を新しくつくりだし,魔法世界の存続を目指すという一発逆転の壮大なもの. この事業が成功すれば,「始まりの魔法使い」と「完全なる世界」たちがもくろんだ計画の前提そのものが失われることになるわけだ. ネギの「プラン」が目指す目標はすばらしい. それが達成されるなら,どんな対立勢力からも文句は出ないだろう. だが当然ながら,目標さえすばらしければ万事OKというわけにはいかない. その目標は達成可能なものかどうか,が問われねばならないからだ. もしネギが,われわれがいるこの現実世界であの「プラン」を言い出したら,それは荒唐無稽な笑い話で終わっただろう. いまのこの現実世界の科学技術のレベルでは,たとえ100年のスパンをとって考えても,とてもあのような壮大な目標は達成可能なものとは思われない. だがネギまの作品世界には魔法と魔法世界がある. 魔法世界の科学(魔法?)技術がどれだけのものかはよく分からないが,もしかしたら魔法世界の科学(魔法?)技術をもってすればあの「プラン」は達成可能になるのかもしれない. じつのところネギの「プラン」を待つまでもなく,あのような計画は以前からあの世界の誰かによって考えられていたであろうことは想像に難くない. 生命力が魔力の源だということが判明したその時点で,政策立案者であれ政治家であれ学者であれ,どうすれば問題が根本的に解決するかが分からないはずはないからだ. ほぼ間違いなく,いったん考慮に入れられた上で,達成不可能だとして捨てられたのだろう. ところが今のネギには,「計画」を達成する上で,ほかの誰にもない決定的な強みがある. 魔法世界全体を一体化できる圧倒的カリスマだ. 「始まりの魔法使い」たちにとっては皮肉なことに,彼らが全力を尽くして魔法世界を消滅せんと企んだおかげで,それを止めたネギは救国の英雄となった. そのネギ自身が計画し,みずから先頭に立って実行する「プラン」は,魔法世界全体から支持されるに違いない. おそらく(地球世界ではなく)魔法世界において,すさまじい勢いであの「プラン」は遂行されていくだろう. 「始まりの魔法使い」たちは,本人たちの意図とはまったく逆に,ネギのプラン遂行におおいに寄与することになったわけだ. この「プラン」の遂行により,ネギはナギを超えることになるだろう. いや,すでに今の段階でもうナギを超えていると言っていいかもしれない. 「始まりの魔法使い」を蹴散らしたそのとき,ネギはあれほど憧れ追い求めたナギと実質的に並ぶことになった. その後に英雄として歓迎され,しかし息つく暇なく戦後の諸問題を解決すべく奔走しはじめるところまでそっくりである. ところがネギは,ナギたちには手をつけることができなかった魔法世界存続問題の根本的な解決を目指しはじめた. そのとき,ネギはナギを超えたのだ. いままでネギは父に憧れひたすらその背を追うだけだった. そのままではネギは決してナギに追いつくことはなかったに違いない. しかしいまや彼はそのことよりも大事なものを見出し,それを追い求めはじめた. まさにそうしはじめたそのとき,ネギはナギを超えたのだ. それはネギがネギ自身になったということなんだよな. いつかの麻帆良武道会でナギにかけられた言葉の通りだ. さてしかし,読者としては計画の達成可能性ばかりに気を奪われているわけにはいかない. ネギにはまだ重大な問題が残されているのだ. さんざん超えた超えないの話をしておいてアレだが,36巻最後で登場したナギ(らしき人物)について,そして黄昏の姫御子ことアスナ姫――神楽坂明日菜について,である. アレは本当にナギなのか? そうだとしてもそうだとしなくても,アレを今後どうするのか? そしてアスナをどうするのか? アスナについては,そのまま墓守りとして眠りにつき,そしてネギの計画が達成されたそのときに二人は100年の時を超えて再開を果たす――という展開になっても,じゅうぶんに感動的な物語になるとは思う. 旅立つヒーローと帰る場所を守るヒロインという構図は,きわめて古典的なものではあるがそれだけになじみも深いわけだし. だがしかし,神楽坂明日菜の人格がそのときまでに消失してしまうという可能性が語られたいま,ネギは決して彼女をそのまま眠りにつかせはしないだろう. なぜなら,それは魔法世界編でかつてフェイトに迫られ,一蹴した選択――アスナ一人を犠牲にして自分たちとその周りだけが救われることの拒否――にふたたび立ち返り,それを台無しにしてしまう行為だからだ. ではどうするのか,という話になるが,残りは38巻の一冊だけということを考えると,おそらくナギ問題とアスナ問題が,同じひとつの問題として解決されるのではないか,と想像している. ……というか連載ではもうここらへんは解決しているのかな. 私は単行本派なので本誌連載がどうなっているのか分かっていないんだよね. すでに答えが出ている(かもしれない)問題を予想することほどバカバカしいことはないような気もするけれど,まあ気にしないでつづけよう. ……んで,ナギ問題を考えると,たぶんあれは本物のナギだろう(残り一冊しかないわけだから別の可能性はありえないと思う). どういうわけかナギは(あるいは“お師匠”も同時に),かつて否定した道を選ぶことになってしまった. あるいはかつて否定した人物そのものになってしまった. それはなぜか. そのわけは,たぶん「始まりの魔法使い」あるいは「造物主」という存在がなんなのか,そして「造物主の鍵」,「コード・オブ・ザ・ライフメーカー」という魔法(?)とはなんなのか,あるいはさらにさかのぼって,魔法世界とはそもそもどのようにして成立したのか,という仕組みそのものに関わっていることなのではないか. そしてその仕組みの中に「黄昏の姫御子」アスナ姫も組み込まれていて,その仕組みを解くことでアスナ姫が墓守りとして眠りにつかずにすむ可能性が開かれることになる――のではなかろうか. うーむ.マンガ版「ナウシカ」とか「まおゆう」とかに影響されすぎな見方かなあ. というか残り一冊でそこまで語るのはやっぱり無理な気もするなあ. まあ,これまでに描かれているのに読み落としている情報が残っている可能性も高いと思うので,既刊を読みなおしてみないことにはなんともいえない,かな. しばらくはネギま漬けの生活を楽しみつつ,最終巻が出るのを心待ちに待ちたい. この偉大な傑作の堂々たる完結をリアルタイムで見届けられるのは僥倖だ. 魔法先生ネギま! 33巻の「完全なる世界」をめぐる一考察 その2
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