タイトルを漢数字で表すと分かりにくくなるのでアラビア数字に変えてみた.
どうやってたどり着いたのか覚えていないが,山形浩生訳でデカルトの『方法序説』が読めるようなので,有名な「われ思うゆえにわれあり」の部分を読んでみる. すべてが非現実だと考えたくても、そのように考えているこのわたしは、なんらかの形で存在しなくてならない。そしてこの真理、われ思う、故にわれあり(COGITO ERGO SUM)がまったく確実で、確固たる証拠を持ち、どんなにとんでもないものであれ、疑問の余地はないことがわかった。だから、疑念なしにこれを、わたしの求める哲学の第一原理として受け入れようと結論づけたわけだ。 次の「神の存在証明」ってのはとっても批判が多いようだが,いま読んでみて初めて気づいたが,神の存在証明そのものが正しいか間違っているかよりも,こっちのほうが大事なんじゃないか. われわれの考えや概念は、それがはっきりしていて疑問の余地がなく真実であり、神から派生しているという限りにおいて真実なのだ、ということだ。 これは以下のような意味だと思う. 「疑う私」以外のすべてのことは真実と断定することはできない.感覚は間違いかもしれない,論理(数学)は筋道が間違っているかもしれない,現実は夢かもしれないからだ.しかし,神が存在して,それが完全であって,そして何かが神から派生した場合のみ,それは「疑う私」以外に真実として認められる,ということ. つまりここでデカルトが言っているのは,「神が存在することは確実だ」ということじゃなくて,「もし私以外に確実なものがあるとすれば,それは完全な神から派生したものだけだ」っていうことなんだろう. 神の存在証明は,昔読んで「?????」となっていた部分だったけど,うん,こう考えれば非常に納得いく議論だ. … うーん,もう一読して,また微妙に印象が変わってきた.完全な神,ってのは「われ思うゆえにわれあり」なのはなぜ?と考えた時に,「我」の根拠を与えるものとして出てきたのかなあ.う~~~む.
by LIBlog
| 2009-07-29 21:09
| 雑記
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