物語に対する共感や反感とは何なのか?

ひさしぶりにぷよm@sの話……かと思いきや,そうでもなかったり……と思ったら,そうでもあったり? いや,そうでもないですハイ.

ちょうど今から一年前にtwitterで交わしていた,ぷよm@sについての会話を読み直していて,いろいろ思うことがあった.

Togetter - 「2010年8月14日 ぷよm@sについて,@L_I_Bと@kazumaxさんと@kitchompさんとで語りあったよ」

↑この会話. これ,いま読み返すと きっちょむPが語られていることが非常に味わい深くて,いろいろと考えさせられた. この当時はうまく応えられていないんだけど.

それはたとえば,こんな感じの言葉.


受け手と作り手の価値観が食い違ってるって言うか。

あるいはこちら.

ただ、罪に対する罰ってのも難しい問題で。アイドルに悪いことさせるのも、そのアイドルに酷い目に合わすのもどちらも作者の役目。そのどちらの描写もファンにとって気持ちいいものでないわけで。

今までに,ぷよm@sのネガコメ問題とか,最近だとうさぎドロップの第二部の展開に対する反応なんかを見ていて,なんとなーく違和感があった.

私はあんまりニコ動でネガティブなコメントがつくこととか,作品に対する否定的な意見をネットで読んだりとか,そういうことに強い反発心を持ったり不快感を抱いたりするほうではないんだけど,やっぱりなんかどっか感覚が違うというか,そういう感触があった. でも,それが何なのかよく分かってなかったんだよね. で,それがきっちょむPのツイートを見て,ああそういうことか,と分かった気がした.

それは何かというとたぶんこういうこと. 今まで,マンガでも動画でもなんでもいいんだけど,物語の展開とかキャラクターの言動やなんかに違和感や不快感を覚えたとき,どうして 「その作品の作者を非難する」 って方向に行く人がいるのかな,ってのが腑に落ちなかったのだ. で,ああそっか,その展開・言動は作者のさじ加減ひとつだと考えるからそうなるのか,と.

現実世界で理不尽で不合理で腹立たしいことが起こったとき,私たちはそのできごとに責任を負っている人を責める.容疑者だったり上司だったり首相だったり他国だったり. ではフィクションの世界で,同じように理不尽で不合理で不愉快なできごとが起こったとしたらどうだろう. ……私としては,どうもそういうときは現実世界と同じように, 「作品中で責任を負っている人」 に対して腹が立つことが多いみたい.

でもよく考えたら,その登場人物のその言動を描いているのは作者なんだから, 「作者に責任がある」 という発想もあるはずだよなあ,と改めて気付いた. そういう発想が自然に出てこないところをみると,私はあまりメタに物語を読まないようだ.

…….

でも,物語の展開や,登場人物の言動について,本当に作者に責任があると言えるんだろうか?

私は創作をしないから本当のところは分からないのだが,物語作家たちからよく 「キャラクターが勝手に動く」 という現象を聞く. もしそれが本当ならば, 「勝手に動いた」登場人物たちの振る舞いについて作家が責めを負うというのは酷な話だ,と言えないだろうか. 物語のできごとや展開についてもそうで,たしか宮崎駿だったと思うけれど, 「映画は映画になろうとする. 作者の役割はそれを間違えずになぞることだ」 と言っていたと思う. もしそうならば,その展開が描かれることの責任は作者にあるのだろうか?

現実世界では,天災や不運や不幸など,だれに対して不快感や怒りをぶちまけたらいいのか分からないできごとが起こったとき,ごく一部しか責任がないはずの人を,スケープゴートとして過大な責任を負わせて吊るし上げるようなことがよくある (私だってそうしてしまうことがあっただろうし,また私自身にとばっちりが巡ってこないという保証はない).

フィクションの世界でも同じじゃないだろうか. こみあがってくる不満や怒りの矛先を誰にも向けられないことがあり,そうしたときのスケープゴートして作家本人が吊るし上げられてしまう. 実はそんなことが起こっていたりはしないだろうか.

…….

いや,そう言い切ることはできない. ネガコメ問題はそんな単純な図式にはなっていないだろう.

フィクション世界は,作り手のフィルターを介して提示される世界だ.それは寓話だとかはっきりしたテーマを持つ物語の場合に顕著だろうと思うけど,そうじゃなくても,どんなフィクション世界でも,そこには作り手の主観が入りこみ,フィルターがかかっているはずだ.

どんな人も,現実をそのまま理解し,受け取り,飲み込むということはない. その人自身のこれまでの歴史や,人生観や,倫理観のフィルターをかけて世界を見て,受け取れる部分を受け取れるかたちで受け取り,そうでない部分は受け取らない,という受け取り方をしているはずだ. それはたとえば他人を理解するときも同じで,他人の理解可能な部分を切り取って,理解可能な形で並べかえて整理して,そうしてはじめて他人を 「理解」しているはずだ. だから世界を見たり,人を理解したりする行為は,ある意味ではその対象をバラバラにして組み直しているわけで,暴力的な行為でもある. ……だからといって世界を見なかったり人を理解しなかったりするのは,もっと暴力的かもしれないけど.

フィクション世界を作家が紡ぎだすとき,意識無意識は問わず,そこには作家がどのようなフィルターで世界を見て,どのようなフィルターで人を見ているかが必然的に反映されているはずだろう. そのフィルターに対して受け手が反発したとき,その反発は必然的に (作中人物でなく) 作家に対するものになりはしないだろうか.

また逆に考えれば,そのフィルターに対して反発する人もいれば,共感する人だって出てくるだろう. そのフィルターが厚いものであればあるほど反発も共感も強くなりそうな気がする. だから,熱狂しながら受け取る人が出てくる物語には,どうしたって反発する人が同じくらい出てくるもので,それは避けることができないものなのかもしれない.

そう考えていくと実は,当初の考えとは違って, 「作家に対する反発」 は,私はあまり感じたことはなかったけど不自然でもなんでもないものなのかもしれない. 「作家に対する共感」 と表裏一体の形ではあるけれど.

いまのところ,物語への反発と共感の根っこはおそらくここにあるのだろう,というのが私の理解だ. これは一次創作,二次創作問わず,問題の共通した本質なのではないかと思っている. まあそれ以外にも派生する問題とか付随する問題とか,複雑なことがいろいろあるんだろうけど.

これを現実世界との比較で考えるなら,マスメディア批判なんかが近い図式で理解できそうだ. 現実のできごとをどういうフィルターで受け取り,どういうフィルターで切りとって伝えるか.

ただマスメディアに対する反発と共感は,現実にそれによって利益を得る人や不利益を被る人がいるから生じることだろう,と言うことができそうではある. 偏向報道によって不利益を得る人が反発し,利益を得る人が共感する,てな風に. だとすると,じゃあ物語に対する反発と共感はどうなのだろうか. 物語を読んで,利益を得る人が共感する? 不利益を被る人が反発する? そんなことはないだろう.

そんなことを考えていると,そもそもなぜ私は (というより物語をつくったり,受け取ったりして楽しむ多くの人は,物語をつくるとか,) 物語を読むなんてことをしたいのだろうか? という疑問が浮かんできてしまった. 物語に,キャラクターに共感したいから? ならばなぜ共感したいのか? 人生観や倫理観の一致を確かめたいのか? そうならば,なぜそんな確認作業をしたいと思うのか?

…….

この疑問については,どうみても私の思考能力をはるかに超えていて,なにかしら考えが浮かぶ気配すらない. ……ので,とりあえずアレコレ考えるのはここで打ち止めにしておこうかなあと思う.

というわけで,まあこの文章をここまで読む人がいるとも思えないけど,これはなにか訴えたいこととか,そういうものがあって書いた文章ではないっす. ただ自分がつれづれなるままに疑問に思ったことをそのまんま垂れ流しただけなのです. だからネガコメすんなとか,ネガコメべつにいいじゃんとか,そういう主張をしているわけではないので,そこんとこよろしくお願いしますです.

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(追記) ちょっとだけ続いたんじゃ.

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by LIBlog | 2011-08-16 19:59 | 雑記
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