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「うちのクラスの天海さん」


すっきりぽんP の新作が,すごく良かった. もうたまんなく良かった.

【ニコニコ動画】うちのクラスの天海さん


春香さん,可愛すぎでしょう. そりゃ彼だって,つーか誰だって,ファンにならずにゃーいられなかろう.

ファンとして,同じファンが生まれる瞬間を目にするというのは,なんでこんなに嬉しいんだろうねえ. 彼と一緒に,私ももう一度はじめから天海春香のファンになったみたいな気分になったよ.

それでまたねえ,この作品では,「彼」がいい味を出しているのが,たいへんによろしいのである.

うちのクラスの天海さんについて語る彼は,最後までどういう男の子なのかまるっきり分からないんだけど,どこからどうみてもザ・男子高校生. 部活も友達も家族構成も,得意科目も苦手科目も,なぁんにも語られない彼は,しかし誰に見られているでもないのに言い訳を重ねつつそっとグラビアをのぞき込んでしまうくらいに,100%男子高校生なのだ. 思わず 「お前は(昔の)俺か」 と言いたくなる.

その彼が,じわりじわりと,ときにガツンと,天海さんの魅力にやられていく. 自然と私も 「彼」 に自分を重ねて,じわりじわりと,ときにガツンと,天海さんの魅力にやられてしまうんだよなあ. 私も彼と一緒になって,くるくる表情を変える天海さんの姿に心を躍らされてしまうのだ. ああ,こっちに気づいて目をぱちぱちさせる天海さんはかわいいなあ. 我にかえって走り去るその間際におでこをぶつけちゃう天海さんはかわいいなあ.

…….

でも,彼が,ということはつまり私が,ほんとうの意味でアイドル 「天海春香」 にやられたのは,やっぱりあの市民ホールでのライブを観てから,なんだよね.

その前までは,まあたぶんその,なんだ,健全なる男子高校生として健全なる程度に,クラスメイトでアイドルなんかやっちゃってる天海さん,に興味津々だったんだと思う. そう,「よく見ればかわいい」 というくらいに (でもラジオから流れてくる声だけで天海さんだと分かっちゃったりするくらいには,最初から惹かれてたのかもしれないけど).

でも,彼が,ということはつまり私が,天海さんがやりたかったこと,そしてそれをやり遂げていること,を目の当たりにした そのとき,その気持ちは尊敬に変わるのだ.

警察官が制服を,大工が作業着を着るように,天海さんは舞台衣装を着る. ……だがそうは言っても,同年代の自分たちのうちのいったい何人が,そんなことができるだろうか. みんなまだ,自分が何になりたいのか,何をやりたいのかも分かっていないだろう. ぼんやりとした夢,くらいはあるかもしれないけれど,そこまでどうやって行くのかなんて,想像もできない. ふつうはそうだろう.

そんなときに目の当たりにする,アイドル天海春香. 彼女ははっきりと,自分のやりたいことが何なのかが分かっている. そして,はじめは借り物のようだった,舞台衣装に包んだその姿. その 「やりたいこと」 を叶えるための姿を,ゆっくりと,でも確実に一歩一歩,自分のものにしていったのだ. そのことを,彼は,私は,天海春香のステージを前にして,知ったのだ.

その内側からにじみ出る,彼女のたしかな意志. その外側からほとばしり出る,それをやってみせる彼女の輝き. それが天海春香であり,天海さんであり,だから彼女そのものなのだ. それは作りものでも,飾りものでもない. その舞台を終えて,はにかみながらも誇りをたたえた笑みをみせるクラスメイトの天海さんの姿は,かわいくもあり,まぶしくもあるのだ.

もうすでに男子高校生をはるかに通り越した私ではあるけれど,その気持ちはやっぱり,尊敬,だと思う. 天才ではない. 秀才でもない. クラスでもとくに目立った子ではなかった. ただまっすぐに,自分のままに,自分のやりたいことをやるだけの力を,自分で手にしたのだ. それが,うちのクラスの天海さんなのだ.

ああ,やっぱり彼女は,じつにもってまったく,たいしたヤツなんだなあ.

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by LIBlog | 2011-08-31 22:12 | 動画サイト関連 | Comments(0)

「竜の学校は山の上」 持つもの持たざるもの,望むもの望まざるもの

九井諒子先生の「竜の学校は山の上」を読んだ. やべえ,これすごい好きだわ.


きっかけは書店に並んでいた試し読み用の小冊子に載っていた「進学天使」という読みきり小編. 翼が生えた女の子が進路に悩む話(笑). これがすごく気に入って購入して,全編通してすごく良かったけど,いちばん印象に残ったのはやっぱり 「進学天使」 かな. そう考えると,この一話だけ小冊子にした書店さん,なかなかやるなあ.

「進学天使」 はこんな話. 高校進学を間近に控えたその女の子は,近場の高校に進むのではなく,アメリカに留学するべきだと勧められる. 翼で空を飛ぶ力は,そのまま放っておけば失われてしまう. そうなる前にアメリカの養成所で訓練するべきだと. でも彼女自身は,飛ぶこと自体に執着があるわけではなかった. それよりも気になる男の子と一緒の高校に通うことのほうが魅力的だったのだ. その男の子は彼女に,「自分のやりたいことをやるべきだ. 翼が生えているからといって普通の生活が送れないというのはおかしい」 と語り,彼女が留学をやめる決意をする背中を押す.

だが卒業直前,彼女はふとしたきっかけで,その男の子に翼をはばたかせて空を飛ぶ姿を見せることになる. その美しさと,そして電柱や電線だらけの日本の空での飛びにくさを目の当たりにした男の子は,やっぱり留学するべきだと彼女に伝えてしまう. ショックを受ける彼女に,さらに男の子から浴びせられる一言は…….

普通の生活をあきらめてまで磨きつづけなければ失われてしまう,という彼女の力に,さまざまな意味での「才能」の暗喩を読み取ることはたやすいだろう. その力が「翼を羽ばたかせて空を飛ぶ」という現実ではとてもありそうもないものだからこそ,多くの人が自らの状況を,彼女や彼女をとりまく人々に重ね合わせて読むことができるのではないだろうか.

この短編でもそうだけれど,この一冊に含まれる多くの作品において特に印象に残るのが,持つ者と持たざる者との対比に加えて,望む物と望まざる物との対比だ. しかもこのふたつが,多くの場合でまったく正反対になっている.

力を持たない彼にとって,彼女がその才能を捨ててまで望んだものは,本当につまらないものに見えたことだろう. だが力を持つ彼女にとって,その力はただやっかいなだけで,望むものは本当に輝いて見えたことだろう. 二人の間には大きな断絶がふたつある. 皮肉にも,彼が彼女のほんとうの才能と願望を理解したがゆえに,その断絶があからさまになってしまった. この隔たりは,おそらく埋まることはないのだろうと思う.

傷心の彼女は,どういう道を選ぶことになったのだろうか. 最後のコマを見るに,こっちに行ったのかな,と思うところはあるが,結局のところ彼女がどうしたのかは分からないままだ. だがいずれにしても,満足や幸福からはほど遠い選択になったことだろう. そう思うと,読んでいるこちらとしても暗い気分になる.

彼女にとって救いがあるとすれば,どちらの道を選んだとしても,そしてそれが本当に望んでいたこととは違うものだったとしても,その選択を肯定することがいつでもできるということだろう. 彼と彼女の「断絶」と同じように,過去の彼女と未来の彼女の間にも「断絶」ができることはありうる. そして彼と彼女の断絶が彼女を絶望させたのと対象的に,過去と未来での断絶は,未来の彼女にとって救いになる可能性があるのだ.

彼女がいま望むものが彼にとってつまらないものに思えたように,未来の彼女がいまの彼女が望むものを思い起こしたとき,それがつまらないものに見えるということは充分にありうることだ. そんなもののためにこの能力を捨てないでよかった,と思うかもしれない. いま感じている絶望は,あるいは「いい思い出」として未来の彼女の中で処理されるかもしれない. これは大きな,大きな断絶だ.

だがそうやって (未来の) 自分にすら見捨てられた過去の彼女は,しかしそうされたということを決して知ることはない. それはある意味では,いまの彼が彼女に対してとった態度よりもさらにおぞましく無神経で絶望的な視線だろう. だがそれは彼女にとって,まぎれもなく大きな,大きな救いなのである.

……救いであり,希望であることは確かなのだけれど,でも,それでもどうしても,私は,それで忘れられ,切り捨てられ,捨て去られていく 「今の彼女」 が気になって仕方ないのだ. 彼が彼女に浴びせた一言は,だから私にとっては彼女自身が彼女に向けるかもしれない,恐ろしい視線のように見えたのだった.

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by LIBlog | 2011-08-26 22:11 | マンガ・本 | Comments(0)

アイマスクエスト105話 一枚絵に描かれる技量の差

ておくれPの歴史的カムバック以来,毎回毎回とんでもないことになっているアイマスクエスト. その最新話の一シーンについての,まことにもってどうでもいいお話です.

【ニコニコ動画】アイマスクエストⅣ 105話 第八章09「大空の覇者」


いつものことながら (というのもすごい話なんですが),一話の中でもあっちこっちと衝撃的な展開が繰り返される今回. ただ,そのなかで個人的につよく印象に残ったのが,両雄あいまみえる場面での一枚絵ですね.

というわけで以下,ネタバレ全開のため格納~

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by LIBlog | 2011-08-24 20:42 | 動画サイト関連 | Comments(0)

人はなぜ物語を読むのか

ここんとこずっと,昨日書いてた話が頭を離れない. いつもは考えてたことを文章にして出力すると,憑きものが落ちたように頭からぬけていくんだけどなあ.

なもんで,その考えが頭から離れるまで,少しだけ昨日の話の続きを.

といっても,今日の話は多くの人にとって本当に興味のない話だと思うです. ……ていうか昨日の話を読んで下さった方がいらっしゃるってことにちょっとびっくりしてるのだけど,あれって後半に行くにつれてつまんなくなるでしょ?www 昨日の話は,いちおうは公共的な問題から出発してるんだけど,どんどん自分の問題意識の方に話を引っ張っていって,最初の問題からずんずん離れていっちゃってるなあ,と思うからねえ. ずんずん.

そういう意味では,今日の話はあくまで私の問題意識だけの話なので,ほとんどの人にとってマジつまんない話だと思うです. おそらく間違ってると思うしw とまずは言いわけをしておいて,と.

…….

昨日の記事では,人はその人自身のフィルターを介して現実を受け取ったり他人を理解したりしているものだ,と書いた. 現実や他人をいったんバラバラにして,自分に分かる形に並べかえて整理して受け取り理解するものだ,と. で,物語を読むときも自分のフィルターを介して読むものだから,物語の中ににじみ出ている物語作家のフィルターに共感や反感を抱いたりするものだと.

で,最後の方になって,じゃあなぜそもそも人は物語を読んだり (あるいはつくったり) したいのか? という疑問を抱いてしまったのだった. こんな根源的な疑問に,薄学の私がなにかしらの答えを思いつくはずもないよなあ,などと思っていたのだが,ひとつ 「こうかな?」 という考えが浮かんできた. もしかしたら,順序が逆なんじゃないかと.

昨日は,現実を受け取るときとか,他人を理解するとき,自分の人生観や倫理観でフィルターがかかってしまうことは不可避である,という流れの話をしていたんだけど,そうじゃなくて,本当は逆なんじゃない? 現実を受け取りたいと思ったり,他人を理解したいと思ったりするその動機の一部に,自分の人生観や倫理観の確認作業をしたいという思いがあるんじゃないか.

こうも言いかえられそうだ. 昨日までの話は,現実の受容や他人の理解は 「宝さがし型」 で,まず受容や理解をしたいという思いがあり,でもどうしてもそこにフィルターがかかってしまうと. いっぽう今日の話は 「仮説検証型」 で,まず仮説があり,それを検証するための手段として現実の受容や他人の理解をしたいと思うと.

この方向に極論していくと,人生観や倫理観のフィルターの検証のために 「だけ」,現実の受容や他人の理解をするのだ,という主張にまで辿りつく. そこまで言う人はさすがにいないだろうけど.

さて,もしそうだとしたら (本当にそうかどうかは措く.仮にそうだとしたらどうなのか,ということに興味があるから), 人はなぜ物語を読みたいのか,という疑問に答えられそうだ. 人は自分のフィルターの確認をするためにあらゆる体験をしたいのだから,物語を読むことはきわめて効率のよい確認の手段になるだろうから.

そうならば,人は自分自身 (のフィルター) にしか興味がなく,それだけが,そしてそれを正しいと思うことだけが大事なことなのだ,というなかなかに悲しい結論が導かれてしまいそうだ. だけどたぶん,そんなはずはないだろう. 少なくとも現実の受容や他人の理解の背景が,それ 「だけ」 と言い切るのは間違っていると思う. ……でも,そうではあっても,ごく一部だけならば,そういう動機だってあるんじゃないのか? という思いもぬぐいきれずに残るけれど.

さて,仮にその考えが正しいとしてもさらに,じゃあなぜそのフィルターが正しいことを確認したいと思うのか? とか,そもそもたとえば乳幼児は人生観だの倫理観だののフィルターが備わってるはずもないのに現実を受け取ってるじゃないか,そのときはどういう受け取り方をしているのか? とか,すぐさま色々な疑問を思い浮かべることはできる. そうして問題は果てしなく続いていく.

……いくんだけど,そろそろそういう疑問については自分の能力を超えるってだけじゃなく,自分の興味も超えてきているみたいな感じ. こーいう疑問について,あんまり考えてみたいと思わないんだよな.

というわけで,そろそろ自分の考えを存分に頭から押し出せたかなあ,と思うので筆を置こうと思う.

いやー,相変わらず主張も構成も何もない,ホントにどうでもいい文章だわい.

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by LIBlog | 2011-08-17 23:17 | 雑記 | Comments(0)

物語に対する共感や反感とは何なのか?

ひさしぶりにぷよm@sの話……かと思いきや,そうでもなかったり……と思ったら,そうでもあったり? いや,そうでもないですハイ.

ちょうど今から一年前にtwitterで交わしていた,ぷよm@sについての会話を読み直していて,いろいろ思うことがあった.

Togetter - 「2010年8月14日 ぷよm@sについて,@L_I_Bと@kazumaxさんと@kitchompさんとで語りあったよ」

↑この会話. これ,いま読み返すと きっちょむPが語られていることが非常に味わい深くて,いろいろと考えさせられた. この当時はうまく応えられていないんだけど.

それはたとえば,こんな感じの言葉.


受け手と作り手の価値観が食い違ってるって言うか。

あるいはこちら.

ただ、罪に対する罰ってのも難しい問題で。アイドルに悪いことさせるのも、そのアイドルに酷い目に合わすのもどちらも作者の役目。そのどちらの描写もファンにとって気持ちいいものでないわけで。

今までに,ぷよm@sのネガコメ問題とか,最近だとうさぎドロップの第二部の展開に対する反応なんかを見ていて,なんとなーく違和感があった.

私はあんまりニコ動でネガティブなコメントがつくこととか,作品に対する否定的な意見をネットで読んだりとか,そういうことに強い反発心を持ったり不快感を抱いたりするほうではないんだけど,やっぱりなんかどっか感覚が違うというか,そういう感触があった. でも,それが何なのかよく分かってなかったんだよね. で,それがきっちょむPのツイートを見て,ああそういうことか,と分かった気がした.

それは何かというとたぶんこういうこと. 今まで,マンガでも動画でもなんでもいいんだけど,物語の展開とかキャラクターの言動やなんかに違和感や不快感を覚えたとき,どうして 「その作品の作者を非難する」 って方向に行く人がいるのかな,ってのが腑に落ちなかったのだ. で,ああそっか,その展開・言動は作者のさじ加減ひとつだと考えるからそうなるのか,と.

現実世界で理不尽で不合理で腹立たしいことが起こったとき,私たちはそのできごとに責任を負っている人を責める.容疑者だったり上司だったり首相だったり他国だったり. ではフィクションの世界で,同じように理不尽で不合理で不愉快なできごとが起こったとしたらどうだろう. ……私としては,どうもそういうときは現実世界と同じように, 「作品中で責任を負っている人」 に対して腹が立つことが多いみたい.

でもよく考えたら,その登場人物のその言動を描いているのは作者なんだから, 「作者に責任がある」 という発想もあるはずだよなあ,と改めて気付いた. そういう発想が自然に出てこないところをみると,私はあまりメタに物語を読まないようだ.

…….

でも,物語の展開や,登場人物の言動について,本当に作者に責任があると言えるんだろうか?

私は創作をしないから本当のところは分からないのだが,物語作家たちからよく 「キャラクターが勝手に動く」 という現象を聞く. もしそれが本当ならば, 「勝手に動いた」登場人物たちの振る舞いについて作家が責めを負うというのは酷な話だ,と言えないだろうか. 物語のできごとや展開についてもそうで,たしか宮崎駿だったと思うけれど, 「映画は映画になろうとする. 作者の役割はそれを間違えずになぞることだ」 と言っていたと思う. もしそうならば,その展開が描かれることの責任は作者にあるのだろうか?

現実世界では,天災や不運や不幸など,だれに対して不快感や怒りをぶちまけたらいいのか分からないできごとが起こったとき,ごく一部しか責任がないはずの人を,スケープゴートとして過大な責任を負わせて吊るし上げるようなことがよくある (私だってそうしてしまうことがあっただろうし,また私自身にとばっちりが巡ってこないという保証はない).

フィクションの世界でも同じじゃないだろうか. こみあがってくる不満や怒りの矛先を誰にも向けられないことがあり,そうしたときのスケープゴートして作家本人が吊るし上げられてしまう. 実はそんなことが起こっていたりはしないだろうか.

…….

いや,そう言い切ることはできない. ネガコメ問題はそんな単純な図式にはなっていないだろう.

フィクション世界は,作り手のフィルターを介して提示される世界だ.それは寓話だとかはっきりしたテーマを持つ物語の場合に顕著だろうと思うけど,そうじゃなくても,どんなフィクション世界でも,そこには作り手の主観が入りこみ,フィルターがかかっているはずだ.

どんな人も,現実をそのまま理解し,受け取り,飲み込むということはない. その人自身のこれまでの歴史や,人生観や,倫理観のフィルターをかけて世界を見て,受け取れる部分を受け取れるかたちで受け取り,そうでない部分は受け取らない,という受け取り方をしているはずだ. それはたとえば他人を理解するときも同じで,他人の理解可能な部分を切り取って,理解可能な形で並べかえて整理して,そうしてはじめて他人を 「理解」しているはずだ. だから世界を見たり,人を理解したりする行為は,ある意味ではその対象をバラバラにして組み直しているわけで,暴力的な行為でもある. ……だからといって世界を見なかったり人を理解しなかったりするのは,もっと暴力的かもしれないけど.

フィクション世界を作家が紡ぎだすとき,意識無意識は問わず,そこには作家がどのようなフィルターで世界を見て,どのようなフィルターで人を見ているかが必然的に反映されているはずだろう. そのフィルターに対して受け手が反発したとき,その反発は必然的に (作中人物でなく) 作家に対するものになりはしないだろうか.

また逆に考えれば,そのフィルターに対して反発する人もいれば,共感する人だって出てくるだろう. そのフィルターが厚いものであればあるほど反発も共感も強くなりそうな気がする. だから,熱狂しながら受け取る人が出てくる物語には,どうしたって反発する人が同じくらい出てくるもので,それは避けることができないものなのかもしれない.

そう考えていくと実は,当初の考えとは違って, 「作家に対する反発」 は,私はあまり感じたことはなかったけど不自然でもなんでもないものなのかもしれない. 「作家に対する共感」 と表裏一体の形ではあるけれど.

いまのところ,物語への反発と共感の根っこはおそらくここにあるのだろう,というのが私の理解だ. これは一次創作,二次創作問わず,問題の共通した本質なのではないかと思っている. まあそれ以外にも派生する問題とか付随する問題とか,複雑なことがいろいろあるんだろうけど.

これを現実世界との比較で考えるなら,マスメディア批判なんかが近い図式で理解できそうだ. 現実のできごとをどういうフィルターで受け取り,どういうフィルターで切りとって伝えるか.

ただマスメディアに対する反発と共感は,現実にそれによって利益を得る人や不利益を被る人がいるから生じることだろう,と言うことができそうではある. 偏向報道によって不利益を得る人が反発し,利益を得る人が共感する,てな風に. だとすると,じゃあ物語に対する反発と共感はどうなのだろうか. 物語を読んで,利益を得る人が共感する? 不利益を被る人が反発する? そんなことはないだろう.

そんなことを考えていると,そもそもなぜ私は (というより物語をつくったり,受け取ったりして楽しむ多くの人は,物語をつくるとか,) 物語を読むなんてことをしたいのだろうか? という疑問が浮かんできてしまった. 物語に,キャラクターに共感したいから? ならばなぜ共感したいのか? 人生観や倫理観の一致を確かめたいのか? そうならば,なぜそんな確認作業をしたいと思うのか?

…….

この疑問については,どうみても私の思考能力をはるかに超えていて,なにかしら考えが浮かぶ気配すらない. ……ので,とりあえずアレコレ考えるのはここで打ち止めにしておこうかなあと思う.

というわけで,まあこの文章をここまで読む人がいるとも思えないけど,これはなにか訴えたいこととか,そういうものがあって書いた文章ではないっす. ただ自分がつれづれなるままに疑問に思ったことをそのまんま垂れ流しただけなのです. だからネガコメすんなとか,ネガコメべつにいいじゃんとか,そういう主張をしているわけではないので,そこんとこよろしくお願いしますです.

──────────

(追記) ちょっとだけ続いたんじゃ.

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by LIBlog | 2011-08-16 19:59 | 雑記 | Comments(2)

他者の内面は観察可能か,という話

海江田さんの話はとくに興味がないけれど,これは面白い文章だった. さすが内田センセイ.

感情表現について (内田樹の研究室)

文章の最後のほうで,

今、私たちの社会では、「過度に感情的であることの利得」にあまりに多くの人々が嗜癖し始めている。
それは私たちの社会が、「大人のいない社会」になりつつあるということを意味している。
そのことのリスクをアナウンスする人があまりに少ないので、ここに大書しておくのである。
と書かれている割に,そのリスクとは何なのか具体的には一切書かれていないのがちょっと不満だけどw まあそれは各自考えろ,ということなのだろう.

…….

で,感情をあらわにすることの政治的な利点の話と,大人がいなくなってきた話ってのには興味をひかれなかったんだけど,一方でとても面白いと思ったのが,感情ってのは発達に伴ってどのように獲得されるのか,という話.

感情は自分の内面に根拠をもっていると私たちは思いがちだが、ほんとうはそうではない。
脳科学が教えるところによれば、私たちは感情を外部にあるものの模倣を通じて学習するのである。
(中略)
例えば、「怒り」という感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって内面化し、学習される。
子どもの内面に感情がまずあって、それが身体表現に外化するのではない。
他人の身体表現を模倣し、それが伴う情動が内面化した結果、感情が生まれるのである。

一読してすぐ,そんなわけないだろ! と突っ込みたくなった. そもそも快不快をふくむ原初的な感情は新生児でも持っているはずだ,不快感がなければミルクも飲まないだろうし,汚れたオムツに泣き叫んで親を呼んだりしないはずだろう.

がしかし,たぶん内田センセイは,乳児には一切感情がない,などというラディカルな主張をされているわけではないだろう. そのあとで,「怒り,叫ぶ」ことが原初的な感情であると仰っているからだ. 要するに幼児は最初から複雑な感情というものを内面に抱えているわけではなく,最初はきわめて原初的で単純な内面=感情しか持っていないのであり,のちに外面=身体表現の獲得にともなって徐々に内面=感情も分節化し複雑になっていくのだ,と主張されているのだろう.

それはそれで納得したのだが,ここでもう一つ疑問が浮かんだ. この文章では,

『幼児は複雑な内面=感情を持っているが,それを表現する外面=身体表現を持っていない(ゆえに単純に見える). 発達にともなって,複雑な内面に対応するような複雑な身体表現を,徐々に模倣により学んでいく.』

という仮説(?)が否定され,かわりに,

『幼児は単純な外面=身体表現と同様,単純な内面=感情しか持っていない. 複雑な身体表現を模倣により学ぶのと同時に,感情も付随して複雑化していく.』

という仮説が提唱あるいは支持されているのだと思う.

だがしかし,このふたつの仮説をどのように検証したらいいのだろうか? 前者と後者は,どのようにしたら区別可能なのだろうか?

そもそもわれわれが観察し,他者から読み取ることが可能なのは外面=身体表現だけなのではないだろうか? 他人が怒っている,あるいは楽しんでいる,あるいは悲しんでいる,ということは,その外面にうかぶ表現からしか読みとれないのではないか? その内面が単純なのか複雑なのかは,自分以外の者については知り得ないのではないだろうか.

身体表現に現れない内面=感情を,測定する手段は存在するのだろうか. 脳波? fMRI? 勉強不足で私にはぜんぜん分からない. しかし前掲の文章中でははっきりと,

感情は他人の外形を模倣することで発生するわけであるから、外形抜きの「純粋感情」などというものは存在しない。
と言い切っているのだから,おそらく内面を観測する手段はあるのだろう.

…….

てなわけで, mirror neuron review というキーワードでPubMedを検索してみた. うーむ,面白げなレビューがいっぱい出てくるなあ.

幸運にも私は少なくともいくつかは手に入る状況にある. 読んでみよう. ……時間ができたら.

とか言ってるうちは,ぜったい読まないんだろうなあ. あはははは.

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by LIBlog | 2011-08-12 20:25 | ねっとさーふぃん | Comments(0)

「3月のライオン」6巻 人と人とのつながり


羽海野チカ先生の名作3月のライオン 6巻が出た. ……というか出てしばらく経ってしまった.


やっぱ面白いよなあ,この作品. 前々巻,前巻の島田さんも印象的だったけど,今巻の零くんとひなちゃんもまあ,たいしたもんだ. こちらはまだまだ始まったばかり,って感じだけどねえ.

…….

この作品は,将棋以外に何もない,親も兄弟も友人も帰れる場所もなにもなかった零くんが,それらを手に入れていく物語なんだろうなあ,と思う. 使い古された言葉を使うなら「絆」を.

零くんはひなちゃんに対して恩とか義とかなんかイロイロ言ってるけど,そうか? そういうもんか? 彼を突き動かしてるのって. ただただガマンがならない,放ってはおけないから,どうしようもなくそうしてるんじゃないか? まあ手段はまだ手探りなんだろうけどさ.

だから,そこにあるそれはもう,絆そのものだろう. つまるところ家族みたいなもんじゃないか. 短くても太い交わりが絶えずあった,そして生まれたものこそが,彼を突き動かしたんじゃないか?

いわゆる幸せな家庭に育てば,それは当たり前に手にできたはずのものだったかもしれない. でも零くんとってそれは,必死な思いをしてつかまなければいけないものだった. それは間違いなくつらいことだろう. だけど,必死でつかんだそれは,当たり前にそこにあるものと思い込んでいる人のそれより,はるかに価値があるものになるだろう……みたいなことを想像したりして.

……なんか,今まさに渦中にいる彼ら彼女らを前に,こんなこと上から目線で言うってのもアレだけど…….

…….

すこし違う話をしようかな.

今巻で,物語の本筋とはあまり関係ないところだけど,ああそっか,と思ったことがある. それは,こんだけ図抜けた仕事をしている人でも,仕事ばっかりしているわけじゃないんだよなあ,ってこと. あたりまえだけど.

なんかこう,歴史上でも数人しかいないような天才的な仕事をする人 (零くんって実はそうなんだよな.中学生プロなんだからさあ) って,ほかの全てをなげうって仕事ばっかしているような勝手なイメージが自分の中にあったんだけど,そうじゃないんだよな. 仕事は確かに彼らの人生の中で最大のものか,少なくとも最大級のものではあるはずなんだけど,それしかやってないってわけじゃないよな.

むしろ仕事に対してそんだけ全力投球できるような「人物」であるからこそ,それ以外のこと,まわりの人たち,あるいは社会だのなんだのといったもっと遠い人たち,とのこともごまかしたりはしないんだよな. それがつまり,その人であるっていうことなんだろう.

桐山零くんは将棋ばっかやってて勝ち上がってきたけど,将棋ばっかやって勝って満足しているような人じゃないんだ. 島田さんだってひたすら将棋に打ち込んできたその情熱と同じくらい,故郷の将棋クラブ的なアレを気にかけてるし弟子たちにも将棋界にも気を配ってる. なんか,そんな当然のことに今さらながら気づいて,ああそうだよなあ,と思った.

なんか,たいした仕事もしてないのに,忙しい忙しいとヒイヒイ言いながら,それを言い訳に他のことから目を背けたり,なあなあで済ませてきた我が身をすこし振り返ってみて赤面するわたくしなのであった.

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by LIBlog | 2011-08-05 20:38 | マンガ・本 | Comments(0)