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3月のライオン 人と,将棋の鬼と.

羽海野チカ先生の 「3月のライオン」7巻はとても印象的な一冊だった.



冒頭のスキンヘッド氏編から,いじめ編を経て,宗谷名人編に至るまで,それぞれがつよく印象に残った.

いじめ編は,以前,どう決着するか楽しみだという話を書いたことがあるんだけど (→「3月のライオン」 反正義の社会適応),7巻を読んで,ああこの決着の仕方はとても好きだな,と感じた.

ひなちゃんを含めて多くの人は消化不良な感じを残しているだろうと思うし (実際,あれは解決になっていないという評を見ることもある), たしかに当事者意識が強ければそうだろうなあ,と私も思う. ……思うけれど,やっぱりあの 「解決」 の仕方は私ごのみなんだよね.

社会を成り立たせているさまざまな前提 (他者への共感とか) からして,公的には絶対に受け入れられることのない願望を持つような人は,どうしても一定の数はいるものだ. というより,そういう願望は少なくない数の人の中にあって,それをかなり多く持つ人もいる,と言うべきかな.

そして,もしそういう人がそういう願望を表出させてしまえば,当然ながら否定され報いを受けるべきだ. そして,それが必然だということが伝われば,それだけでいいと私は思う. 大人ならば子供に対してそういうことを示すべきで,大人同士ならばそうなるような社会を作るように努力すべきだ. そしてそれだけでいい. そういった因果応報的なものは,反社会的な行動やその結果に対してだけ発生すべきで,そこでさらに内面から改悛を迫るってのは,個人的にはあまり好きになれないんだよね. まあある程度は仕方がないのだけど,行き過ぎるとそこに宗教とか洗脳のようなものに対する反発に近いものを感じてしまうから.

だから,担任が変わったあとのあの先生の態度は,大人としての矜持を感じさせて非常に良かったと思うし,そしていじめ編がいじめっこの内面に深入りせずに描写を終えたことにも好感を持った. それはある種,上品な決着の仕方なのだ. ただ同時に,ひなちゃんがあのいじめっこを許しがたく感じ続ける気持ちもわかる. ここで言っているような立場を貫けば,そこにはどうしたって理不尽さは残るわけだから.

まあ,だからそれは 「私ごのみの解決」,「 の限界,ということになるのだろう.

…….

ところで私にとって7巻でもっとも印象深いシーンは,最後の宗谷名人のあいさつの場面なのだ. あれは本当に凄いと思った. あの宗谷名人という人は,われわれ凡百の者とは別の世界に棲んでいるのだ,と感じさせられたからだ.

羽生善治のインタビューとかを見ていて,ああこの人は俗世から離れてるな,この世にはいないな,と感じることがよくある. あの,視線を虚空に彷徨わせながら,あくまでも穏やかに,狂気と隣合わせの世界について語る姿に. おそらく羽海野チカ先生は,プロ棋士のそういった部分をああいう形で表現してるのだろうと思う.

羽生だけじゃなくて佐藤康光とか糸谷哲郎とかのトップ棋士を見ていると,人間臭い部分が匂ってくることも もちろん多いのだけれど,それだけじゃなく,ああこの人たちはわれわれとは本質的にちがう位相で生きてるんだな,ふつうの意味での好悪や快不快なんかとは離れたところにリアリティをもって生きてるんだな,みたいな印象をうけることが多い. ただ私は,それはあの人達の純粋さとか,頭の良さみたいなものとして理解していて,それを異質なもの,異形なものとして捉える感覚はなかったんだよね.

ところが7巻最後の宗谷名人のあいさつの描き方を見て,うわ,羽海野先生はトップ棋士たちのああいうところをこういうふうに捉えるのか,こういう形でそれを表現しちゃうのか,すげえな,と思ったのだ.

あの描かれ方を見て,トップ棋士たちのあの姿が,私の中で少し意味を変えたように感じた. 同時に,はじめて彼らの凄さと,それと表裏を一体にする異形さ,というものの一端がわかったような気がした. それはプロ棋士たちのあの姿と同種の匂いを漂わせる作者だからこそ つかみ得たものなのだと思う. この捉え方,描き方は,本当にすごいと感じさせるものだった.

そんなわけで,私にとっての7巻のクライマックスはこのシーンだったのだ,ということが言いたかったのでした.
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by LIBlog | 2012-03-30 19:46 | マンガ・本 | Comments(0)

「われ敗れたり」 勝負師の内面を渦巻くもの

米長邦雄著 「われ敗れたり ―コンピュータ棋戦のすべてを語る」 がすばらしかった.


本書は,今年1月に行われたコンピュータ将棋ソフトとプロ棋士との公式対局「電王戦」を,対局者である米長自身が振り返って記したもの. 羽生善治や渡辺明など一流棋士はみな面白い文章を書くが,米長の文章も本当にすばらしい. 立ち読みで読破して,そのままレジに持って行ってしまった.

引退して7年も経つ,まもなく70歳になろうとする米長が,対局までにどのような準備を重ねたか. 対局中になにを考えていたか. それらを綴る文章は,対局者本人だけが体験できる臨場感に満ちており,そこからは迫力すら漂ってくる.

だが本書が本当の意味で魅力的なものになっているのは,皮肉にも米長が今回敗れたことによるところが大きい,と言えるだろう.

本番の対局では,事前の研究が功を奏した形で,米長は序盤でコンピュータに対し圧倒的な優位を築くことに成功する. にもかかわらず,中盤でのわずかな見落としを突かれ,最終的にはコンピュータに完敗を喫してしまう.

この一局にそのまま勝ち切っていれば,米長の構想は,とりわけ二手目6二玉の一着は,歴史的名手として語り継がれることになるはずだった. だがしかし,たった一つのミスにより,その名声は幻と消えてしまう. それだけにとどまらず,新聞等からは6二玉の一着は奇手だったと貶められることになってしまうのだ. その理不尽,悔恨,その他様々な思いが――米長の内面を渦巻く余人には計り知れぬものが,行間から沸き立つその情念が,本書をこの上なく魅力的なものにしている.

6二玉の一着への思いが本書の表の主題とするならば,裏の主題は,米長と米長の奥様との問答においてクライマックスを迎える.

対局前,米長は若手棋士にたびたび尋ねる. 私に勝算はあるかと. 若手は異口同音に答える. 「先生を信じています」 「期待しています」 

この問いに対し,奥様だけは違った答えを返した. 対局当日の朝,米長に問われて返した答えは,

「あなたは勝てません」

米長の奥様は,将棋に関してはコマの動かし方を知っている程度の素人である. にもかかわらず, 「勝てないでしょう」 ではなく 「勝てません」 という断言. これに驚き,なぜ? と問い返す米長. それに対する奥様の返事は,米長にさらなる衝撃をあたえた. 「なぜなら――」 

この奥様の答えに対する米長自身の解釈が,本書の中に幾度か登場している. が,幾度か,どころではなく,じつのところそれこそが本書の全体を貫く思想的根幹である,と私は考えている.

現役時代から米長が生涯のテーマとして考え続けてきた,勝負に勝つためにはどうしたらいいか,そもそも勝負に勝つとはどのようなことか,という問い. その問いが,勝負の場からいったん離れ,再びその場につこうとするとき,また新たな側面を見せることになったのだ.

引退したはずの米長の内に,いまだ消えず燻るプロ棋士としての矜持,勝負師としての情熱. それが本書の表と裏のテーマとなり,読者の胸を打つ. 対人間ではないからこそ純粋な形で浮き彫りにされるその思いが文章の裏に透けて見える. まさにそれこそが,本書の魅力をさらに押し上げているのである.

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by LIBlog | 2012-03-18 19:23 | マンガ・本 | Comments(0)

マンガ版「紫色のクオリア」一巻 人間,人間ならざるもの

うえお久光,綱島志朗両先生によるマンガ版「紫色のクオリア」の1巻を読んだ.


原作の小説は未読なので今後の展開は分からないのだが,少なくともこの1巻目は非常に面白かった.

物語の主人公はスポーツ万能でサバサバした性格の少女,波濤学(ガクちゃん)と,その親友で紫色のひとみを持つ美少女,毬井ゆかり. 毬井ゆかりには「人間がロボットに見える」らしい. ガクちゃんはそんなゆかりの言うことを半信半疑で聞いていた. しかしある日ガクちゃんは,とあるおぞましい事件に巻き込まれたことをきっかけにして,ゆかりの目に映るものを,驚きとともに受け入れざるを得なくなっていくのだった…….

タイトルに「紫色のクオリア」とあるように,この作品の主題は,通常の人間とはちがった視覚をもつ毬井ゆかりのクオリアの特殊さにある……と思うかもしれない. しかし,そうした哲学的な特殊さ,奇妙さはたしかに面白くはあるのだが,少なくとも一巻においては,物語の主題ではないように私には思われる. 本当の主題は,あまりにも鋭敏すぎる感覚を持ってしまった人物が,いかにして社会に受容されていくか,というところにある. マンガ版「紫色のクオリア」の一巻が描き出しているのは,(「凡人」である)他人に怖れを抱かせてしまうある種の「天才」が,それでも他人を愛し,そして受け入れられていく過程なのだ.

「人間がロボットに見える」という毬井ゆかりの感性とは,哲学で扱われるような「クオリア」や「哲学的ゾンビ」に類するようなものでもなければ,精神疾患による異常や妄想などでもない. 「人間がロボットに見える」のは,毬井ゆかりの特殊な「目」,すなわち感覚器の違いによるものであり,それはたとえば赤外線スコープをつければ暗闇でも目が見える,などといった状況に近い. 毬井ゆかりの「目」はあまりにもするどすぎて,われわれが人間を見るときには見落としてしまうものを見出してしまう(見出してしまうどころか,それに介入することまでできてしまうのだが)のだ. だから,そのような「目」を持っているからといって,彼女が何も感じられないゾンビであるわけではないし,人間を無機質で冷たいものと捉えているわけでもない. この一巻全体を通して,波濤学はそのことを実感することになる.

第一話で,波濤学は毬井ゆかりを抱きしめ,こんなことを考える.


そう言って抱きしめかえしてはくれるけど……
わかってない
わかってはもらえない

きっとあたしの体は
硬くて冷たい
ロボット……

一巻全体を通して描かれるのは,そうではないということなのだ. われわれには硬くて冷たく見えるロボットが,毬井ゆかりにとっては暖かくやわらかな人間と同じなのだから. むしろ彼女は,やすやすとロボットを壊し機械を捨てる われわれのほうの感性を空恐ろしいもののように感じているだろう. それでも毬井ゆかりは自らの鋭敏さをひた隠し,われわれと同じであるかのように振る舞う. そうしなくては,他人から拒絶されてしまうということを知っているからだ. いままで幾度となく,そういう目にあってきたからだ. だからこそ,一巻最後の波濤学の言葉が――自らのすべてを知った後でもなお「友だち」だと言ってくれたその言葉が――毬井ゆかりにはあまりにも貴重なものとして響いたのだ.

だから,ここで毬井ゆかりと対比されているのが,人間をただの肉袋だと感じる凶悪犯なのだ. 彼女の目には,人間はロボットではなく人間として映ってはいるだろう. しかしその「人間」は暖かく血の通ったものではなく,冷たく硬い物体にすぎない.

どれほどその「目」が異質であっても,毬井ゆかりが人間に,親友に受け入れられる可能性はけっして閉ざされはしない. それとまったく同じ理由で,あの凶悪犯がどれほどわれわれと同じ「目」を持っていようが,けっして人間に受け入れられることはないのだ. 彼女の感性は欠陥を抱えたもの,ゆかりに言わせれば「プログラムのバグ」でしかない. 彼女がそれでも人間であるためには,のちのち他の人々に受け入れられる余地を残すためには,是が非でもそうでなくてはいけないのだ. なぜなら,それはあきらかに周囲の人間とは異なる部分をその内に抱えこんでいる毬井ゆかりが,それでも人間に受け入れられるための条件でもあるからである.

感覚が違っていても,あるいはたとえ外見が違っていても,人は人を受け入れることができる. だがどんなに感覚が同じであろうが,外見が同じであろうが,人に人として受け入れられることのない者もいるのだ. この一巻で描かれているのは,人間が何を受け入れ何を受け入れがたく感じるか,その多様性と,同時にその限界でもある,ということなのだろう.

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by LIBlog | 2012-03-15 22:30 | マンガ・本 | Comments(0)

「生命科学者の伝記を読む」を読む

仲野徹先生の「なかのとおるの生命科学者の伝記を読む」を読んだ.


あまりの面白さにため息. 卓越した業績を残した科学者の伝記は,その仕事だけ追ったものであっても十分面白いのだが,そのうえその家庭的思想的歴史的社会的背景にまで迫られたら,そりゃーとてつもなく面白くもなろうというものだ.

クレイグ・ベンターや森鴎外の闘いの人生を,前者はおおきな尊敬と親しみをこめて,後者はいくばくかの苛立ちと,やっぱりある種の親しみをこめて語る. 研究に対するジョン・ハンターの狂気と隣りあわせの姿勢を,好奇心丸出しで語る. オズワルド・エイブリーのひたすら真摯な姿勢を,その口調に尊敬と憧憬をたたえつつ語る.

本書は「伝記」ではなく「伝記の書評」のかたちをとっている. それゆえということもあろうが,伝記そのものとちがって基本的にほとんど一次資料にあたってはいない. が,しかしそのぶん著者の主観が色濃く出ていて,そこを楽しめる. 同業者ならばこそ,卓越した研究者の優れたところと困ったところをつまびらかにしていく筆者の評に「あるある」と思わずつぶやかされる. ついでにあとがきはさらにそのまとめ(三次資料?)なのでもっと主観的で面白い. 各伝記の面白い部分はギュッと凝縮して詰め込んである.

「伝記の書評」であるがゆえに,各伝記の紹介としてもすぐれた一冊だといえる.本書は単体でも楽しめるし,さらに気に入った研究者について知りたいと思えば,それぞれの伝記を手に取ればいいのだ.お得感満載.

すこし残念なのは,連載されてたのが専門誌の「細胞工学」なので,彼らの業績そのものの紹介は,非専門家の読者にとってはやや難解なのではないかと思うところ,かな. 子どもや異業種のひとには薦めにくい本かもしれない…….

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by LIBlog | 2012-03-06 20:55 | マンガ・本 | Comments(0)

現場とリーダーの情報交換について

粒度が細かい指示について - medtoolzの本館

面白かった. 以下,自戒を込めて思ったことをメモ.


状況を打開していく上で、問題の粒度をふるい分けることは、リーダーの大事な仕事になってくる。

「必要以上に細かい指示」は、普通に回っていた現場に対して、無能がある種の「コミュニケーション」を試みたときに発せられることがあって、これがものすごい迷惑を生む。

粒度のふるい分けは,リーダーの仕事というより,現場の最前線からトップまでのあらゆる段階の人々それぞれの仕事なのではないかと思う.

粒度の錯誤は,トップから現場までのどの段階でも生じうる. しかし,粒度ふるい分け問題が問題として認識されていれば,その錯誤はどの段階でも解消しうる. 粒度の錯誤を最小限にとどめるためにも,現場とトップのコミュニケーションは,トップから降ってくるまで待つのではなく,現場側からトップへも持ちかけるべきだろう.

たとえば現場側がトップ側に対して,問題の粒度をコントロールしながら情報伝達していくことは可能だ. 可能なだけでなく,それは中間管理職とか,ある程度責任を負った現場の人の仕事のひとつであるはず.

問題の粒度をコントロールするためには,現場側は情報をそのまま出すのではなく,整理された形で出さなければいけない.

整理された情報の出し方の一例は,インフォームドコンセントのやりかたに学べると思う.

現場側は複数の選択肢を用意し,それぞれのリスクとベネフィットをトップ側が実感を持てる形で提出する. トップ側はその中の一つを選ぶ. もちろんトップ側から発されるどんな質問にも,現場側は答えられる準備をしておかなくてはいけないけれど.

ただ,このやりかたはトップ側の自尊心に触れる恐れがある.


恐らくはたぶん、業界をまたいだいろんな場所で、「俺はえらいんだ」と誇示したい馬鹿な瞬間が、きっとあるのだと思う。

こうした派生的な微妙かつ繊細な問題については,いかに対処していくかということは私のほうが教えを乞いたいものでございます.

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by LIBlog | 2012-03-04 19:13 | 雑記 | Comments(0)